失われた屋台

太平楽台

  • 太平楽台1

文化8年(1811)頃、神楽台組内部で紛争が起こり、小前の者16軒が分離して太平楽台組を作った。 祭礼には神楽台とは別に「太平楽台」の名前で参加。その後、安政元年(1854)に休台。文久3年(1863)には黒木屋勘六が「太平楽」と書いた旗を作り、大八車で曳いた記録がある。しばらく、2つの屋台組として運営されていたが、明治24年(1891)現在の屋台が建造された時に、廃台となった。
屋台の方は、明治26年(1893)に黄鶴台に23円で売却されたという記録が残るが、おそらく台車のようなものではなかったかと長倉氏は述べている。

屋台の特徴

Point 1屋台の特徴

現在も神楽台組に「太平楽台」の箱が残っており、「上段幕 絽縮緬・中段幕 猩々緋・下段幕 翠簾」と書かれ、古い神楽台の御簾を保管してある。この記録から、当時は小ぶりながらも三段の屋台の形をしていたのではなかろうか。また、屋台組には「萬歳」と記した旗が残っており、「太平楽」の旗かもしれない。
屋台の役割

Point 2屋台の役割

「太平楽」は雅楽の楽曲で、太食調(たいしきちょう)の合歓塩(がっかんえん)という曲の別名となっている。そのため、日枝雅楽会では上一之町を通るときには、この曲を演奏する習わしになっており、現在でも道楽(みちがく)の時に演奏されている。

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